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Western Movies in Lone Pine

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話が後先するが、再びManzanarに出かけたときのことである。
途中渋滞に遭い、片道3時間半で到着する予定が5時間半もかかり、
結局Manzanarから少しばかり引き返し、Lone Pineという街に泊まることになった。
辺りは街灯も少なく、手頃なモーテルを見つけたときには、周囲はまったく暗闇の中だった。
翌朝、夫に「外へ出てごらん」と言われ、
ドアを開けて目に飛び込んできたのがこの景色だった。
うっすらと月も空に姿を見せ、雪を頂いたシエラネバダ山脈が凛とした冷たい空気の中で、
神々しいまでにそびえていた。
思わず歓声を上げ、カメラのシャッターを押した。
右の奥に見えるのが標高4,418mでアメリカ最高峰のホイットニー山ではないかと思う。

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朝食は我が家の定番コース、「その町に古くからあるホームメイドスタイルのレストラン」へ。
その名もHigh Siera Cafe。
木造のやわらかな雰囲気のカフェでは同じようなツーリストが何組か朝食を摂っていた。
夫はこれまた定番のグレービーソースかけビスケットとハッシュドポテト。
私はさすがに朝からはど~んと食べられそうにはなく、
「本日のスープ」ビーンズとハムのカップスープを。


朝食後は…
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by lanova | 2007-01-31 23:26 | Trip | Trackback | Comments(38)

Jan. 30/Saving the Parties

日本時間の1月29日は日本に暮らす長男の25歳の誕生日だった。
そして翌30日は彼の妻の24歳の誕生日。
1日違いの誕生日をきっとまとめて祝ったことだろう。
うっかりおめでとうコールをかけそびれてしまうといういい加減な母ではあったが、
決して彼らの誕生日を忘れたわけではなかった。
夫婦で1日違いの誕生日というのも悪くないだろう。
決してお互いの誕生日を忘れることがないだろうから…
誕生パーティがまとめて1回になるのは、物足りないかもしれないけど、
経費節約には大いに貢献できる。
そういえばウチの家族は、何人かがとても近い誕生日だ。
夫とここで一緒に暮らしている次男の誕生日も近いので、毎年まとめてBirthday Party。
その夫と彼の妹も誕生日は近い。
実家の両親も2週間ほどしか誕生日は違わないし、弟と私にいたってはまったく同じ日なのである。
母に聞いたところでは、たまたま一緒になっただけだというが、
当時は比較的簡単に誕生日操作をできたという。
子どもの頃には1つのケーキでまとめてお祝いというのに、少なからず不満を覚えていたものだ。
でも、こうしてそれぞれがそれぞれの家庭、暮らしを持ち始めてからは、
家族で誕生日を祝うということはほとんどなくなってしまった。
せめてバースディカードだけは贈ろうと、
誕生日には届くようにとカレンダーに書き込んではいるものの、
やっぱり気がつくととうに間に合わない日だったり、誕生日を過ぎていたりする。
長男と義理の娘へのカードもまだ海を渡っている最中であろうし、
義理の妹へのカードはやっと封をしてというところである。
電話やメールは手軽だし、誕生日のそのときに届けることができる。
それでも封筒に入れられて届くカードに祝福の気持ちを託したいと思う。
息子たちが生まれてから毎年誕生日にはカードを書き続けてきた。
長男の手元にもうすぐ届くだろう、25枚目のバースディカード…

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by lanova | 2007-01-30 22:55 | Logbook | Trackback | Comments(24)

Route 395 to Manzanar in California

c0062603_15495467.jpgそもそもなぜManzanar(マンザナー)へ行くことになったのかというと…
実は前日まで夫はアリゾナ州のYuma(ユマ)への日帰り旅行を計画していた。
さて、Yumaとはどこぞと地図を開いて距離を確かめたところ、昨年末に読んだ「カリフォルニア・ナウ」に出てきたManzanarと家からの距離はほぼ同じ。
いずれにしても日帰りなので、予約を入れているところがあるわけじゃなし、予定変更はできないものかと、勤務中の夫に電話を入れてみると、場所さえ確認できれば大丈夫だとのことで、急遽行き先変更となったのである。
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とはいえ、我が家からManzanarまでは220マイル(約350km)である。
往復で約700kmを日帰りスケジュールに組み込むこと自体が無謀だと言えば無謀だが、我が家にとってはよくあることで、さほど気にもせずに出かけたのである。
ところが途中で道路工事に出くわしてしまい、通常なら20分で抜けられるところが1時間半もかかってしまった。
その上、家を出たのがお昼前とあっては、どう考えても日帰りコースとは言えなかった。
もっとも私にはその220マイルという距離と走行時間が全くタイアップしてはいなかった。
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何はともあれ、ようやく渋滞を抜けて、395号線を北へ北へと車を走らせる。
ところがこの395号線というのが、砂漠地帯の真ん中を果てはないのかと思うほどひたすらに道路が延びているところなのである。
周りに見えるのは草木もない、砂漠地帯ばかり。
ところどころ町らしきものが見えてもゴーストタウンだったり、人の気配がまばらだったり…
後でManzanarに収容された人たちもバスに揺られながらこの風景を眺めていたことを知るのだが、しかし、このときにはお気楽な旅行者気分でこの風景を眺めていた。

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目的地のManzanarに着いたのは…
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by lanova | 2007-01-26 23:56 | Trip | Trackback | Comments(30)

Shikata Ga Nai...Manzanar War Relocation Center 3

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マンザナーを訪れたときは、カリフォルニアに大寒波が訪れる前だったが、背後にシエラネバダ山脈を擁するこの地は、まさに冷たい空気が当たり一面を覆っていた。
しかし澄んだ空気と雪を戴くシエラネバダ山脈の景色は美しい。
スキーを積んだ多くの車が、標高4,418mのアメリカ合衆国本土で最も高いホイットニー山を目指し走り去っていく。
冬はこの地は凍えるほど気温が下がり、寒風が吹きすさんだといい、夏は砂嵐が起こるほどの熱風が巻き起こっていたという。
展示館で展示品や当時のフィルムを用いたドキュメンタリーを見た後、ゆっくりとキャンプ地跡を車で回った。
この地ではよく見かけるBlue bird(青い鳥)をいたるところで見かけた。
幸せの青い鳥…当時ここで暮らしていた私たち日本人の祖先は、どんな思いでこの鳥の飛ぶ姿を見つめていたのだろう。


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1988年、レーガン大統領は、「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名し、この日本人、日系アメリカ人に対する強制収容は大きな誤りだったと、アメリカ政府は初めて公式に謝罪し、一人当たり$20,000の賠償金を生存している82,000人に支払っている。
同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立された。


c0062603_15243594.jpgc0062603_15251173.jpg現在、勤務する高校図書館にも教育用のビデオ等が配布されている。
実際にこのマンザナーで暮らした人の生活を元に製作されたテレビ映画Farewell to Manzanarやその原作本である。
とてもよくできた映画で、この元になった書籍は子どもの年齢に応じて絵本にも作成されている。
この教材はセプテンバー・イレブンの翌年、2002年8月に全米の学校に配布されたものである。
教材とともに配布されたリーフレットには、このように書かれている。
The relevance of the Japanese-American experience to the backlash against Americans of Middle-Eastern descent in the aftermath of the September 11th attacks is a timely and important lesson to tach and understand.


c0062603_15255399.jpgc0062603_15263043.jpgこうしてアメリカの子どもたちは、自国の失敗を教訓として学ぶ環境に置かれている。
鑑みて日本はどうかと問うたとき、何も学んでこなかったことがとても恥ずかしい。
今はせめて子どもたちに真実を伝える教育がなされていると信じたい。
しかし、学ばなかったからといって、そのままにしておけばいいということはないはずだ。
多くの書籍やビデオ、DVDなどを手にすることができるし、こうして便利なインターネットで学んだり、知ったりする機会を得ることができる。
英語のサイト(アメリカ)
Manzanar National Historic Site 
THE MANZANAR COMMITTEE ONLINE
Japanese American Interment
日本語のサイト
マンザナール強制収容所
ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
日系移民の歴史
どのサイトもとてもわかりやすくできているが、中でも「日系移民の歴史」は、丹念な調査に基づいて書かれているとともに作成者の視線の温かさが伝わってくる。


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夫とともにこのマンザナー日本人収容所に出かけた頃、日本に帰国していた息子は、実家の両親とともに沖縄を訪れていた。
そこで「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた彼は、しばしそこから動くことができなかったと言う。
当時の敵国アメリカの住人となった息子の胸に去来したものは、おそらく同じ頃に敵国の人間として閉じ込められた場所に立っていた私と同じだったのではないだろうか。
息子も、そして私も、いずれはアメリカ市民になるつもりだ。
しかし、アメリカ市民となっても、一生「日本人の誇り」だけは持ち続けよう。
それがここで生きていくということ…私はそう思う。

"Wake Up Everybody" Harold Melvin and The Bluenotes


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by lanova | 2007-01-25 23:42 | Trip | Trackback | Comments(10)

Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2

c0062603_1535475.jpg日本からアメリカへの最初の移民は1869年のことだと言われているが、本格的な移民は1885年にハワイ政府と日本政府の間で合意された官約労働移民に始まる。
ハワイのプランテーションで3年間働いた後、日本に帰る者もあれば、そのまま本土に渡って来たり、新たに日本から直接海を渡ってくる者も多かった。
カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州など太平洋側の西部に、日本人は移民として流入し、当初は農園の労働力として働いたが、本来の勤勉さでその力を発揮し、事業を起こす者も現れ始めた。
ところがそれから約半世紀後の1924年に、アメリカ政府は日本人の移民を禁止する法案を発令する(その原因となったという「写真花嫁」については別の機会に)。
その後、日本の移民が復活するのは28年後の1952年のことである。


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その間に第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
1941年12月7日、日本軍によるパールハーバー奇襲により、日本に住む人だけでなく、日本を離れた人々とその子孫にも想像を絶する暮らしが始まったのである。
前述したように1924年から52年までは、日本からの新たな移民はなく、当時アメリカに暮らしていた人は、移民一世の日本人とその子孫である日系アメリカ人の二世や三世だった。
ところが、このパールハーバー奇襲で、敵性国民と見なされた日本人は強制的に収容所に移送されたのである。
法律的にはアメリカ人である日系人も同様の扱いだった。
当時は日本人とその子孫である日系アメリカ人が全米に約120,000人住んでいたという。
その全員が全米10箇所の強制収容所に送り込まれることになり、このマンザナーには約11,000人の日本人、および日系アメリカ人が送り込まれた。
ここで私たちがきちんと理解しなければいけないのは、日本人と日系人は違うということだ。
確かに顔かたち、髪の色などは日本人そのものだ。
しかし、アメリカで生まれた日本人は間違いなく日系アメリカ人であり、アメリカ人としての教育、文化、慣習、考え方を身につけて育っている。
ところが突然として「敵国日本人」にされてしまったのである。
そこでの戸惑いは、昨日まで日本人だったのに、今朝目が覚めたらいきなりアメリカ人と呼ばれるようなものかもしれない。
いや、そんな単純なものではないだろう。
このとき、同じ敵性国でありながら、イタリア人とドイツ人は収容所送りにはならなかった。
これはパールハーバーを仕掛けたのが日本だからとも、民族的な排斥があったためともいわれている。


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主にロサンゼルス周辺の日本人と日系人が収容されたのが、このマンザナーだった。
砂地にバラックが等間隔に建てられ、軍隊式のキャンプ地が敷設された。
一つの建物に数家族が住み、家族同士の仕切りはカーテン1枚。
シャワーも数人で使い、トイレにいたっては男女ともに仕切りがなく、完全にプライバシーのない生活だったという。
しかし、このキャンプ内では比較的自由に行動もできたといい、収容者がそれぞれの職や特技を生かして、次第にコミュニティが出来上がっていった。
キャンプ内には学校もあり、そこではアメリカ人の教師が教鞭を取った。
当時を振り返って収容者の一人が回想する。
「アメリカ人の先生から民主主義について教わるんですが、何とも言えませんでした」と…


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1945年11月21日、このマンザナー強制収容所が閉鎖になるまでの3年間、ここで暮らした人は、日本とアメリカの国家間の戦いとともに、自己の中での二つの祖国の戦いを強いられていた。
この収容所では、アメリカへの忠誠を誓うことを求めた質問が全員になされ、28の質問に対して86.5%の人がYES(忠誠を示す)と答えたという記録が残っている。
自ら志願して大戦に臨み、命を落とした人もいる。
どんな思いで参戦したのだろうかと思うと、胸が締め付けられる思いがする。
多くの収容者は、収容時に財産を没収され、帰る家もなかったため、閉所後もここで生活したという。
135名がここで終焉を迎え、15名がこの地に埋葬されている。

"I still think this is the best country in the world, hands-down...and it's just up to everybody to see that it stays that way."

"Imagine" John Lennon


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by lanova | 2007-01-18 23:48 | Trip | Trackback | Comments(32)

I have a dream...Manzanar War Relocation Center 1

c0062603_15281724.jpg今日1月15日は、今から44年前の1963年8月28日にワシントンDCの大行進で、I have a dreamの演説を行ったMartin Luther King Jr.の誕生日である。
人種差別の撤廃と、すべての人種が平等に協調できる社会の必要性を、簡潔な文章とわかりやすい言葉で説いて、多くの共感を得たことはよく知られるところである。
その演説の日からまだ50年も経っていないことに、意外な思いを抱くのは私だけだろうか。
I have a dream…
この文章をここで見た時は、思わず涙がこみ上げてしまった。

c0062603_1536611.jpgここ…日系人強制収容所Manzanar War Relocation Centerである。
1942年、アメリカ政府はアメリカ国内に住む日本人移民、日系アメリカ人110,000人を強制的に軍隊式のキャンプに強制収容したのである。

c0062603_1534267.jpgなぜ?
当時のアメリカ政府関係者はこう説明している。
日本がパールハーバーを攻撃したからだと…
そしてここに収容された人たちは日本人だから仕方がないと自分に言い聞かせるしかなかったという。
When I asked my mother "Why are we here? Why are we in this prison?" She said simply, "It's because we're Japanese."

c0062603_15412287.jpgこの収容所は全米で10箇所設営され、シエラ山脈の冷たい風が吹き降ろしてくるManzanar(マンザナー)がその中でも最初の設営地だったのである。

c0062603_15435435.jpg今年最初の週末、1月6、7日と夫と出かけたマンザナー日系人収容所跡は、私にとって重い存在となったが、ここに足を運ぶことができて本当によかったと思う。
ここで見たこと、感じたことを何回かに分けて記していきたい。

"We Shall Overcome" Pete Seeger


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by lanova | 2007-01-15 23:11 | Trip | Trackback | Comments(20)

Jan. 12/Home Doctor

マンションミモザオーナーのブログのmimosaさんから、
「アメリカのホームドクターについて述べよ」という命題をいただいた。
そういえばこの話題は、コメント内のやり取りで時々は登場するものの、
一つのテーマとしてのエントリーはしていなかった。
これを機会に、日米で最も異なるシステムの一つホームドクターについて、
個人的な経験からのレポートを。
このホームドクター制と切り離せないのが医療保険制度。
そもそもこちらは日本のような国民皆保険ではない。
あらゆる種類の商品の中から、各自が選んで加入する。
ちょうど日本の車の保険のようなものである。
保険料が高ければ高いほど、当然カバー率も大きい。
また被雇用者の場合は、どこまで雇用側がカバーするかでも
加入する保険の種類が違ってくる。
その上、この保険は内科、小児科、外科など一般の医療保険と、
歯科保険、視力保険の3種類に分かれている。
その中でホームドクターが関わってくるのが、一般の医療保険の部分である。
まず、保険会社の設定するドクターのリストからホームドクターを設定するのであるが、
我が家の場合、家から30分圏内で日本語が話せるというのが条件だった。
具合の悪いときに、とてもじゃないけど英語でなど説明できない。
近所で日本語が話せるドクターは一人しかいなかった。
ところがこのドクターが、我が家にはぴったりだったのである。
台湾人のドクターだが、以前は自治医科大での勤務医だったそうで、日本語は堪能だし、
専門がスポーツ外科で、スポーツをする息子にとっても頼もしかった。
さて、ホームドクターのかかり方である。
まずは身体のどこであっても調子が悪いときには、まずホームドクターのところに行く。
しかし、具合が悪いからといって突然行っても診てもらえない。
どういう状況でも必ず予約が必要。
風邪程度の軽いものなら、処方箋を出してもらい定額料金を払って終了。
この料金も加入保険によって一律ではないが、我が家の場合は1回の診療につき$25.00である。
だから風邪程度ではまずドクターのところには行かない。
また、専門医の診察が必要な場合は、ホームドクターの紹介状を持って専門医に行くわけだが、
これも改めて出直さなければいけない。
ホームドクターから保険会社に連絡を入れてもらい、
そこで了承されると保険会社から紹介状が届く。
そして専門医に再び予約を入れて診てもらうのである。
緊急の場合は、このような流暢なことを言ってはいられないが、
そのときには当然別料金が発生する。
以前息子がバスケットの練習中にジムのフロアで顎を打ち、
顎がぱっくりと割れるという怪我をした。
コーチからの電話でジムに迎えに来るようにとのことだったが、
その前に夫はすかさずホームドクターに電話をして、息子の顎の縫合を頼んだ。
そのときにどうして救急病院に連れて行かないのだろうかといぶかしく思ったものだ。
しかし、言い争いをしている場合ではない。
息子を迎えにいき、そのままホームドクターのもとへ。
他にも予約待ちの患者さんはいたが、とりあえず途中に入れてもらい、
無事の顎の縫合をしてもらった。
実に見事な縫合で、傷跡もほとんど残っていない。
当然、これも$25.00、そしてその後何日か通ったガーゼ交換も1回につき$25.00だった。
なぜ夫は救急病院ではなく、ホームドクターに頼んだのか。
実は救急病院は、救急車で搬送され、生命の危険がある場合でない限り、
救急の治療は受けられないのである。
しかも救急車を呼べば、それだけで高額の費用がかかる。
救急車の走行距離とサイレンの有無によって金額がはじき出されるのであるが、
これが高い!
救急車を呼ぶほどではないからと、自分の車で連れて行こうものなら、
平気で半日くらい待たされる。
友人の息子が腕を折り、骨が外に飛び出しているにもかかわらず、
「死ぬことはないから」と待合室で半日以上も待たされたそうだ。
こういう事情をよく知っている夫は、何の躊躇もなくホームドクターに電話をしたのである。
要するにホームドクターとは、万能の腕を要求される存在なのである。
時には診療時間以外にも救いを求めなければならないときがある。
そんなときにも、我が家のホームドクターは必ず電話でメッセージを受け、
数分後にはコールバックをしてくれるのである。
それゆえに人気のあるドクターで、予約を取るのも結構大変であるが、
今では我が家の健康管理に欠かせない人物となっているのである。
このシステムが日本の風土になじむかどうかはわからない。
しかし、ここでは少なくともホームドクターは、
患者の顔と名前とカルテを一致できる町医者的存在であることは確かなようだ。

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by lanova | 2007-01-12 23:13 | Logbook | Trackback | Comments(34)

Jun. 11/I'm home!

我が家に飼い主知らずの黒猫が迷い込んでからそろそろ1ヶ月になろうとしている。
すっかり女王様気取りで、傍若無人な振る舞いをするかと思えば、身体を摺り寄せて甘えてくる。
もっともそのあたりが可愛いのではあるが…
俄か獣医の夫が彼女の歯をチェックしたところ、もはやうら若き乙女はとうに通り過ぎ、
そろそろ老猫の域に入ろうとしているところだという。
どうも歯も随分欠け始めており、全部揃ってないとのこと。
道理でドライのキャットフードよりもやわらかいものを好むはずだ。
子猫のようにおもちゃなどで遊ぶこともないし、走り回ることもなければ、
あちこちに飛び上がることもない。
「No!」と言えば、おとなしくしているし、この猫用に用意した場所以外では眠ることもない。
それまでのしつけがあるからなのだろうけど、家の中でも粗相は一度もない。
トイレに来たくなると、ドアの前に行き、こちらが気づくまでおとなしく待っているか、
そうでなければ一声短く「ニャ」と鳴く。
こちらが家を留守にするときは、本来の飼い主のところに帰るかもしれないと思うので、
外に出すが、どこでどうしているやら、こちらが家に戻り、しばらくするとドアをノックする。
本当はノックしているわけではないのだろうが、かなり大きな「ゴツゴツ」という音がする。
今やすっかり我が家の一員になってしまったかのようだが、
それでも時には夜遊びに出て朝帰りなどということもある。
なかなか世渡りがうまいようで、夫と私にそれぞれ上手に甘え、
それぞれから食事をしとめる彼女であるが、
どうも日本の猫とは違って煮干やかまぼこは彼女の嗜好には合わないようで、
ハムとフライドチキンが大好物。
さすがAmericnanな猫である。

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by lanova | 2007-01-11 21:40 | Logbook | Trackback | Comments(28)

どうでも良くないどうでもいいこと/フラン・レボウィッツ

c0062603_15272873.jpg1983年に初版が出され、6年後の89年に第四刷を購入していた。
おそらくその当時の書評を読んで面白そうだと思ったに違いない。
そのまま積読状態になって17年、やっとページを繰られるという日の目を見た本である。
作者のフラン・レボウィッツは1951年生まれ。
高校を中退後、ニューヨークでタクシー運転手、アパートのクリーニング、路上のベルト売りなどさまざまな職を転々とし、72年にアンディ・ウォホールの『インタビュー』誌に映画評を書き始めたのが作家としてのスタートだという。
辛口のユーモアと皮肉で、本国アメリカではベストセラーになっている。
で、実際に読んでみてどうだったかというと…
正直に言おう。
よくわからないのである。
この本を購入した当時より幾分かはアメリカの社会事情もわかってきたつもりだが、それでもユーモアの原点がわからないというか、笑いどころがつかめないのである。
そもそも日本とアメリカでは笑いのポイントが異なるとは言われる。
テレビのトークショーを見ながら、夫と息子がゲラゲラ大笑いをしているそばで、一人置いてけぼりを食ったような状況になるのは、5年前も今も変わらない。
同じようにアメリカ人には日本人の笑いが理解できないかと言えば、最近のお笑いは別にして、落語などは英語に訳されるほど、アメリカ人の笑いのツボを得ていると聞く。
となるとこれは個人的なセンスの問題なのかもしれない。
きっとこれは翻訳本だから、原文の英語で読めば笑えるかもなどと思うのは、まさに本末転倒というところだろう。
たとえばこれなどで笑えれば、かなり事情通でアメリカ流笑いを知っているということなのかもしれない。

親としての責任は、あなたが想像するほど重くはない。次代の病気の征服者や映画の大スターを供給する必要はないのだ。あなたの子どもがcollectible(取り立て可能)という言葉を名詞として使用しない大人になった場合は、自分が親として落第だと嘆いてもいい。(親になるためのイロハ)

どうでも良くないどうでもいいこと/フラン・レボウィッツ(晶文社)

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by lanova | 2007-01-10 23:15 | Book | Trackback | Comments(16)

Jan. 7/Coming-of-Age Day

まだ世の中をよく知らない十代の頃には、
50歳まで生きられれば十分だなんて、不遜なことを思っていた。
「50年」という長さは100年の半分で、それはかなり長い時間のことのように思えたものだった。
しかし、そんな思いもいっときのセンチメンタルに過ぎず、
いつの間にかそんなことを考えていたことさえも忘れていた。
やがて2人の息子の母親になったときに、再び「50歳説」が私の中で浮上した。
次男を出産したのが30歳のとき。
彼が3歳のときに息子たちの父親と離婚し、両親のサポートを得ながらの子育てが始まった。
そのときに、いつも自分に言い聞かせていたのである。
「50歳まで、50歳までは何とか頑張るんだぞ!」と。
30歳で出産した次男が20歳になると、私は50歳だからである。
無事に次男を育て上げたら、私の役目も無事に終了するだろう、
50歳で人生の終焉を迎えるというのも悪くはないじゃないかと、
ここでもまた随分不遜なことを思っていたのである。
ところが実際に息子たちの子育ては、実に手抜きであったし、
わき目も振らず子育てどころか仕事に没頭する日々が続き、
両親に負うところが多かったのである。
とても十分に役目を果たしているとは、両親や息子たちさえも思わなかっただろう。
それなのに次男が20歳になり、その数ヵ月後に50歳を迎えると、
「よし、これからが私の人生だぞ!」などと張り切ってみたりもする。
「50歳説」などどこ吹く風である。
今日、日本では各地で成人式が行われている。
この日のために年末に次男は帰国した。
今頃、日本での同級生たちと式典に臨んでいるのだろう。
胸を張って、日本人として成人した喜びと責任の重さをしっかり受け止めてほしい。
やっと肩の荷を降ろした安堵感と、もう肩に負ぶさってはくれないだろう寂しさを思いつつ、
海の彼方から祝福を贈ろう。
Congratulations!

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by lanova | 2007-01-07 19:26 | Logbook | Trackback(1) | Comments(42)