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カテゴリ:Book( 78 )

「非会社人」のすすめ/佐高信

c0062603_413834.jpg職業欄に「会社員」と記入していたのは、1992年から2002年までの10年間だった。
それまでは「フリー」というと聞こえは良さそうだが、常に「不安定収入」と格闘しながらの日々を送っていた。
端からフリーランスでやっていこうと思っていたのではなく、大学卒業前に受験した北は北海道から南は九州までの十数社の放送局に、ことごとくそっぽを向かれたからであり、「それならしゃあないなあ」というので、無所属のままで仕事を続けていた。
なので1992年に「会社員」になったときは、かなりとうの立った新入社員ではあったけれども「会社員」という肩書きが妙に嬉しかったことを覚えている。
そんな会社員になったころ、この佐高信は辛口の物言いで、かなり話題になっており、各地で開かれる講演会なども満員だと聞いていた。
地元でも講演会が開かれたが、生憎都合がつかず聴くことができなかった。
この『「非会社人間」のすすめ』は、そのころに出版されたものであり、当時の「会社員」だったころのことを思い出しながらページを繰ったが、ここで取り上げられている「会社」は従業員数が3桁、4桁の大企業に限るのではないかしらと思った。
何しろ従業員数がやっと2桁という零細企業においては、会社はもう一つの「家族」であると言っても過言ではないように思うし、またそうでなければ小さな会社はうまくやっていけないのではないだろうか。
すっかり会社のいいなりになってまさに会社と心中するかのごとく「会社のため」に働く姿を彼は「社畜」と言い表しているが、少なくともあの当時、わが身を「社畜」と思ったことは一度もなかった。
「寄らば大樹の陰」ではなかったのが、幸いしたのかもしれない。

「非会社人間」のすすめ/佐高信(講談社文庫)
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by lanova | 2008-02-02 13:00 | Book | Trackback | Comments(20)

空の名前/高橋健司

c0062603_6244460.jpg「ああ、日本語ってこんなにも美しかったんだ」と、表意文字の奥行きの深さ、叙情性の高さを再認識させてくれる1冊。
これも1991年の発行で、書店で平積みになっていた記憶があるし、新聞でも何度か取り上げられていたので、当時はかなり売れたのではないかと思う。
作者の高橋健司は、発行当時は日本気象協会勤務だったそうで、いわゆる「空の専門家」。
本人によるさまざまな空の撮影写真と、それにまつわる日本語を紹介した歳時記風天気図鑑である。
写真の美しさもさることながら、それぞれの写真に付記された日本語にうっとりしてしまう。
たとえば雲の様子(出現状況)から、「雲の湊」「雲の澪」「雲の通い路」「徒雲」「はぐれ雲」「浮雲」など、言葉を目にするだけで、その雲の表情が思い浮かんでくる。
雷も古くは神の仕業と考えられていたため「神鳴」と表されていたそうだ。
ちょうどこの本を読んでいた時分に、大きな雷鳴が轟き、空にわかに掻き曇り、稲妻が駆け巡った。
ポーチに出て夫や近所の人たちとその様子を眺めながら、「子どものころには雷様が太鼓を鳴らして臍を取りにくると言われた」と話したところ、「それはおもしろい!アメリカでは神様がボウリングをしている音だと言うんだよ」とのこと。
なるほどゴロゴロ、ドッカーンはそう聞こえなくもなかった。

空の名前/高橋健司(光琳社出版)
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by lanova | 2007-09-03 16:28 | Book | Trackback | Comments(50)

ふつうがえらい/佐野洋子

c0062603_8561796.jpgいいな、いいな、やっぱりこの人好きだなあ。
「佐野洋子」よりも「さのようこ」の方がなじみがあった。
本業は絵本作家。
息子たちが幼い頃、彼女の何冊かの絵本も我が家の本棚に並んでいた。
当時は絵本作家としての「さのようこ」しか知らなかったのだが、何かで彼女が書いたもの(エッセイだと思う)を目にして、「うん、うん、うん、うん」と頷いてしまった。
この「ふつうがえらい」はそんな彼女があちこちに書き散らしていた雑文 (佐野洋子はエッセイではなく雑文と言う)を1冊にまとめたもの。
あとがきで本人曰く『…私は書いたら書きっ放しで、印刷されたものも放っぽらかして、いつ何に何を書いたかほとんど忘れてしまっている』のだそうだ。
もちろん絵本作家という人並み優れた才能の持ち主であり、非凡なる才能は文章の端々にも表れているのだが、そこに書かれている日常の些細な出来事に対する感覚は、とても「ふつう」の人なのである。
この「ふつう」がさまざまなシチュエーションの中で描かれているわけで、それを読む方はその感覚に「ホッ」とするのである。
「ああ、あたしもいっしょだわ…」ってつぶやいたりして…
佐野洋子は以前読んだ「美しすぎる場所」に登場する12人の中の一人で、その中に収められている6編はすべてここにも収められている。
「読書の原点」という雑文の中の一節。

『わかる本は一回読めばいいのね、わかんない本は何回も読んで少しずつわかって来る。書物ばかりではない。人生そのものが、少しずつわかって来るものだからで、少しずつわかって来た時、やっぱ何もわかんないんだという事がしみじみわかって謙虚になれる。』

いいな、いいな、やっぱり好きだわ、この人。

ふつうがえらい/佐野洋子(マガジンハウス)
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by lanova | 2007-08-28 18:58 | Book | Trackback | Comments(8)

睡蓮の午後/辻邦夫

c0062603_8481257.jpgこの読後感、どこかで味わったことがあるなあと、12編の短編を読み終えるたびに感じていた。
なかなか思いつかなかったのもそのはずで、活字ではなく映像の分野であるタモリの「世にも奇妙な物語」を見終えたときの感じに似ているのだった。
「世にも…」は、テレビドラマ用に書き下ろされたものだろうし、この辻邦夫の短編集はそれとはまったく意図の異なるものである。
この12編は、トーマス・マンやジャン・コクトー、モーパッサンなど世界各国の作家の作品が、辻邦夫の手によってまったく別の作品に作り上げられるという模作(パロディ)である。
もちろんオリジナル作品を知っているにこしたことはないのだろうが、仮に読んだことがなかったとしても、このパロディだけで十分に楽しめる。
「どんな結末が待っているのだろうか」と読み進め、最後のオチを読んだときに「ああっ」と思ってしまう。
「そういうことかあ…」という読後感が、「世にも奇妙な物語」を見終えたときの感覚に近しいのである。
この作品集のあとがきに辻邦夫は自らこう記している。

『…小説を現実界の事実認識や因果律から切りはなし、自在な想像的現実の表現にしたいという意図から生まれています。小説は長い幻想小説の流れを持ちますけれど、十九世紀以来、あまりにも現実の重みに歪められすぎました。書くほうも、読むほうも、小説を<現実の報告>と感じるのが前提にまでなってしまいました。たしかにそれは人間的真実の厳しい内在律を描くことを可能にしました。しかし人間的真実の領域は事実的現実を超えたはるかに広い可能性を含みます。
だからといって、恣意的な幻想のなかでただ酔うだけでは、厳しい内在的な現実を透視することはできません。幻想的な作品が二重に困難なのはそのためです。
私が文章という形式を<水面>のように光らせようと考えたのも、小説を、現実の重みから解放し、自由は想像力に従わせたいと思ったからでした。小説はそのほうがはるかに面白くなりうるからです。
…』


各作品の初出は「海燕」であり、1984年1月号から90年に1月号までに掲載されたもので、おそらく「世にも…」が放映されるよりもかなり前のことになるのではないだろうか。

睡蓮の午後/辻邦夫(福武書店)
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by lanova | 2007-08-27 19:00 | Book | Trackback | Comments(6)

人生よ ありがとう/ビオレッタ・パラ

c0062603_8434869.jpg約20年前、私は何かに憑かれたように次から次へと本を購入していた。
当然、己の読書量を遥かに超える購入数で、当時に購入した本は、ページを捲られないままにそのまま本棚に納まっていたものの方が多かった。
昨年、帰国したときにそれらの本をすべてダンボールに詰めて船便でミシシッピへと送り出していた。
そんな20年前の本たちがやっと、本来の目的である「読書」の対象になったのである。
20年前、どういう読書傾向にあったのか、どういうことに興味を持っていたのか、自分のことでありながら第三者的に見ることができて、なかなか面白い。
この本もそういう中の1冊。
きっと書評誌か新聞か何かで目にして、購入したのだと思う。
ラテンアメリカの歴史と文化をテーマにした「インディアス群書」の中の一冊で、チリの民族歌(民謡)をギター片手に歌い続けたビオレッタ・パラの十行詩(デシマ)による自伝という特異な形態のもの。
このデシマというのは、構成上の細かい規則の上に成り立ち、プエタと呼ばれる民衆詩人がギタロンの伴奏で歌ったり語ったりする詩の形式をいうそうだ。
原文はスペイン語で、それが詩人の水野るり子の手によって翻訳されると、情景の伴った日本語の詩になる。
これがどんなメロディーに乗せられているのか、ぜひとも音源を探し出して聞いてみたい。
アメリカという国で暮らし始めるまで、ほとんど興味の対象にはなかったラテンアメリカ。
ところが今、チャンスがあればこの南アメリカを旅してみたいと思い始めている。
遠い祖先は日本人と繋がっているのではないかと思わせるインディアンの人たちを見かけるたびにそう思う。
ちなみにこのインディアス群書は1984年に刊行されたが、その刊行のことばから…

『1492年…薄命の彼方の大陸に、ヨーロッパが荒々しく踏み込むことによって幕開かれた「大航海時代」。ただちにうち樹てられてゆく「白い平和」と、その下でインディアスの大地に塗りこめられていく「敗者たち」の声。そこを端緒とするヨーロッパと非ヨーロッパの対決・相克・葛藤は、コロンブス個人の思惑をおそらくは超えて、その後の人類の歴史を世界的規模で方向づけるものとなった。
(中略)
インディアスを舞台に、ヨーロッパと非ヨーロッパの双方から発せられてきた声は、ある時は「征服」以前のマヤやインカのめくるめく世界へ、またある時はカリブ海やアンデスで激しく胎動する現代ラテンアメリカの豊饒な世界へと、私たちをいざなう。』


人生よ ありがとう/ビオレッタ・パラ(現代企画室)
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by lanova | 2007-08-25 09:02 | Book | Trackback | Comments(4)

文学部唯野教授/筒井康隆

c0062603_952478.jpg文句なしに面白かった。
今を遡ることかれこれ30年ほど前(こう書くと大昔みたい)、文学部文学科日本文学専攻、いわゆる国文科の学生であった。
そんなことすらも記憶の化石となりつつあったときに、読み始めたこの作品で、一挙に当時がよみがえってきた。
思い出すこともなかった教授の顔や名前、そして受講した科目名までが思い出させるではないか。
昨日ランチに何を食べたかは思い出せなくても、「青春」と呼べる時代のことは、何らかの誘い水があれば湯水のように次から次へとさまざまな光景や出来事が思い浮かんでくる。
それも極めて立体的に、時には匂いや音までも伴ってよみがえってくるのである。
で、この作品。
初版は1990年1月26日。
購入したのは1990年3月26日の第四刷。
1980年頃からどんどん書籍が売れなくなってきたといわれている中で、わずか2ヶ月ばかりの間に第4刷までいっていることからも、この作品がベストセラーになったことがよくわかる。
購入当時、なぜ読まなかったのか。
きっとこの本以上に興味を惹かれることと、熱中していることがあったのだろう。
それこそもう青春時代ではなかったので、からっきし思い出すことができないが…
その四半世紀前の国文科の学生だったころに、この唯野教授のような講義を受けていたら、きっと私の学生生活も大いに変わっていただろうと思う。
本当に興味を持って講義を聞いた科目ってあっただろうか。
己の学習意欲のなさを棚に上げて、教授のレクチャーを云々する資格はないが、単位を落とすと困るので、とりあえずは授業に出ていたというところだろうか…
それでも学内にはH教授というマスコミ界にもたびたび登場する非常に話のうまい教授がいて、その教授のクラスはいつも廊下にまで学生があふれていた。
時には他の大学からも学生が聴講に訪れていた。
この作品にも登場する「文学概論」だの「比較文学論」だのという科目も受講していたが、教授の話を聞くよりは、テキストを読んだ方がよほどわかりやすかった。
唯野教授の「文学批評論」なんていう科目があれば、間違いなく受講していただろうに…と思うのは、今だからそう思うのであって、当時は諸先輩から得た情報に基づき、単位の取りやすい教授、出席を取らない教授、なんてのがクラス選択の基準だった。
こういう態度の学生には、必ずそれに見合ったつけが回ってくると知ったのは、卒業を控えた3月。
「源氏物語」が見事に「不可」。
たった1科目のために大学5年生をやるはめになった。
その後は学長になったその教授、厳しいことで有名だったが、必須科目で選択の余地なし。
ちっともこの作品のレビューにはなってないけど、面白い本ってこんなところにあるような気がする。

文学部唯野教授/筒井康隆(岩波書店)
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by lanova | 2007-08-20 19:09 | Book | Trackback | Comments(10)

美しすぎる場所/J-WAVE編

c0062603_856146.jpg作家やイラストレーター、エッセイストなど23人のそれぞれの旅にまつわるエッセイを、1988年10月からJ-WAVEの番組で放送したものの書籍化。
当時は幼い子どもたちの子育て真っ最中で、こういう番組があることさえ知らなかった。
23人の中には、佐野洋子、辻邦夫、金井美恵子、増田れい子など好きな作家人もいれば、ここで初めて目にする作家の名前もあったが、1編が30分という放送枠の中で紹介されたものであり、あらかじめ決められた紙数の中での旅のエッセイということで興味深かった。
もちろんここに登場する23人はプロの書き手であり、それぞれのエッセイに旅の情景が浮かび上がってくる。
ましてやラジオ番組の中で情景にマッチしたBGMとともに流れてくれば、そこを訪れたことがなくても、その風景を目にしたことがあるような気にもなったことだろう。
中でも増田れい子のエッセイ5編は、一編一編を読み終えたときに、いつまでも余韻が残り、自分が今、その旅から帰ってきてような気さえしてきた。
そのまま次のエッセイに進むのがもっていなくて、ページを閉じてしばらくはその余韻に浸る。
旅というものは旅先がどこであろうとも、またいつであろうとも、その旅が終わろうとするとき、終えたときこそが「旅」なのではないかと思う。
ちょっと切なくて、今しがた過ぎ去った風景が遠い日の出来事のように思える瞬間…
今、旅の途上にあって、海の向こうの日本に思いを馳せるのもそのせいなのかもしれない。

美しすぎる場所/J-WAVE編(扶桑社)
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by lanova | 2007-08-18 19:28 | Book | Trackback | Comments(6)

知ってるようで知らない日本語/柴田武

c0062603_8323589.jpgこの類の本は、あちこちの出版社から数多く世に送り出されている。
特に近年の日本語ブームで、きっと日本の書店には「日本語」のコーナーなどもこれまでにないほどのスペースを与えられているのではないだろうか。
ただし、これは昨今の日本語ブームの中で出版されたものではなく、今から20年以上も前に出されたもの。
当時、仕事上の参考資料として我が家の本棚に並んでいた。
その頃は全編を通して読むというのではなく、必要な箇所だけをピックアップして参考にしていたが、今回はじっくり最初からページを繰ってみた。
つくづく言葉は生き物だなあと実感。
20年前には、ごく普通に使われていた言葉でも、今では耳にすることも目にすることもめっきり減っているものが相当数ある。
たとえば「薩摩守」「千三屋」「狼藉者」などという言葉は、息子たちにはてんで通じないであろう。
おもしろかったのはコラム扱いの『知っているようで知らないスポーツ用語』。
たとえば左投げ投手のことを「サウスポー」というが、これはサウスは南で、ポーは手という意味。
左腕投手にアメリカ南部出身者が多かったことからだそうだが、「へえ、そうなの~」と意外だった。
南部出身に限らず、アメリカ人には左利きは多いような気がするのだけど…
ところで「袖にする」だの「下駄を預ける」だの「左前になる」だの、こういうのは英語で何て言うんだろうなあ。
などと野暮なことに思いを馳せるのはやめにして、表現豊かな日本語をたっぷり楽しみたいものだ。

知ってるようで知らない日本語/柴田武(ごま書房)
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by lanova | 2007-08-16 18:41 | Book | Trackback | Comments(18)

風の言葉を伝えて=ネイティブ・アメリカンの女たち/ジェーン・キャッツ

c0062603_926183.jpgこの本が出版されたのは1998年のことだから、およそ10年前のことになる。
訳者の一人船木卓也氏が中学時代の同級生だったこと、この頃からアメリカという国に対する興味がより一層強まったこと、1996年に初めてアメリカを訪れたとき、みやげ物店で見たインデアンアクセサリーのターコイズ・ブルーに魅了されたこと…などから行きつけの書店に頼んで取り寄せてもらった1冊である。
ところが手にしたときには、どうも「今は読む時期じゃないぞ」という気がして、長い間本棚の中に納まったままだった。
そしてアメリカ生活も5年が過ぎ、ほんの少しばかり旅行者の視線から生活者の視線に移行してきた今、本の方から「さあ、ページを開いて」と言ってきたのである。
アメリカ史というと、ついコロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年から始まるような気がするが、その遥か太古、何万年も前から先住民であるネイティブ・アメリカンはこの地で暮らしていた。
LAからミシシッピへの3,000kmの道程には、途中ネイティブ・アメリカンの居留地近辺も通過し、そこかしこにピティ(インディアンの住居)を目にしたりしたが、それは最早観光地でしかなく、本来の意味での居留地に足を運ぶことはなかった。
そしてこの本である。
作者のジェーン・キャッツが、数年にわたりネイティブ・アメリカンの女性14人に、丁寧に何度もインタビューをして彼女たちの生の言葉を採集している。
ここに登場する女性たちは、そのまま居留地に住み続けている人もいれば、ニューヨークなどの都市生活者となっている人もいる。
また芸術家もいれば教育者、活動家、主婦など職業もさまざまである。
ただ彼女たちに一貫してあるのは、どこに住んでいようと、何をしていようと自分の出自(アイデンティティ)に対する誇りを持って生きているということである。
依然としてアメリカ国内では、ネイティブ・アメリカンとコロンブス以降に移住してきたアングロサクソンたちとの間で、様々な問題が持ち上がってはいる。
決して安穏とした日々ではなかったであろう彼女たちを支えているのは、ネイティブ・アメリカンとして生を享け、大地とともに生きてきた、生きているという誇りなのだ。
ふと省みて、私の誇りはどこにあるのかと、わが身に問うた1冊だった。

風の言葉を伝えて=ネイティブ・アメリカンの女たち/ジェーン・キャッツ(築地書館)
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by lanova | 2007-08-14 19:30 | Book | Trackback | Comments(10)

豊臣秀長(下巻)/堺屋太一

c0062603_225391.jpg上巻を読んでから随分時間が経ってしまったが、その間、他の本を読むこともほとんどなかったので、とりあえずは継続感を持ったままで読み進めることができた。
この手合いの歴史小説を読むとき、これはノンフィクション(史実)なのか、フィクション(小説)なのかということをいつも思う。
確か、その時代に史実に基づいたものを「歴史小説」、その時代背景に則って全くの創作を「時代小説」と定義づけられていると読んだことがある。
この作品の場合、主人公である秀吉の弟、秀長に関しては、残された記録物は稀有だということなので、わずかな資料に基づき、堺屋太一により脚色された秀長像が描かれている。
となるとこれは歴史小説でありながら、時代小説のニュアンスも含んでいるということなのだろうか。
歴史的な資料は事象に関しての記述はあっても、心理状態や心情が書き残されているのは決して多くはないだろう。
それをこうしてあたかもそうであったかのように書き、秀長を立体的に浮かび上がらせるのだから、作家の仕事というのは、想像力の結晶なのだろう。
草葉の陰で秀長さんは、「ちと、本当のわしとはちごうとるが、まあ、よしとするか…」なんて思っているのかもしれない。
この本を読んでいるとき、「どんな本を読んでいるの」と聞かれたことがある。
1500年代の日本の歴史の本だと答えたとき、「何とまあ、古い時代ねえ」というリアクションが返ってきた。
そうか、ここアメリカは1500年代なんてまだ国さえない時代だったんだ。
国家が誕生してまだわずか230年しか経っていない(1776年独立)ということに、はたと気づかされた。
当時のアメリカにおける秀吉ならぬ秀長は誰だったのだろうか…

豊臣秀長(下巻)/堺屋太一(文春文庫)
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by lanova | 2007-08-12 12:35 | Book | Trackback | Comments(22)