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Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2

Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1535475.jpg日本からアメリカへの最初の移民は1869年のことだと言われているが、本格的な移民は1885年にハワイ政府と日本政府の間で合意された官約労働移民に始まる。
ハワイのプランテーションで3年間働いた後、日本に帰る者もあれば、そのまま本土に渡って来たり、新たに日本から直接海を渡ってくる者も多かった。
カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州など太平洋側の西部に、日本人は移民として流入し、当初は農園の労働力として働いたが、本来の勤勉さでその力を発揮し、事業を起こす者も現れ始めた。
ところがそれから約半世紀後の1924年に、アメリカ政府は日本人の移民を禁止する法案を発令する(その原因となったという「写真花嫁」については別の機会に)。
その後、日本の移民が復活するのは28年後の1952年のことである。


Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1544770.jpgHnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1552096.jpg
その間に第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
1941年12月7日、日本軍によるパールハーバー奇襲により、日本に住む人だけでなく、日本を離れた人々とその子孫にも想像を絶する暮らしが始まったのである。
前述したように1924年から52年までは、日本からの新たな移民はなく、当時アメリカに暮らしていた人は、移民一世の日本人とその子孫である日系アメリカ人の二世や三世だった。
ところが、このパールハーバー奇襲で、敵性国民と見なされた日本人は強制的に収容所に移送されたのである。
法律的にはアメリカ人である日系人も同様の扱いだった。
当時は日本人とその子孫である日系アメリカ人が全米に約120,000人住んでいたという。
その全員が全米10箇所の強制収容所に送り込まれることになり、このマンザナーには約11,000人の日本人、および日系アメリカ人が送り込まれた。
ここで私たちがきちんと理解しなければいけないのは、日本人と日系人は違うということだ。
確かに顔かたち、髪の色などは日本人そのものだ。
しかし、アメリカで生まれた日本人は間違いなく日系アメリカ人であり、アメリカ人としての教育、文化、慣習、考え方を身につけて育っている。
ところが突然として「敵国日本人」にされてしまったのである。
そこでの戸惑いは、昨日まで日本人だったのに、今朝目が覚めたらいきなりアメリカ人と呼ばれるようなものかもしれない。
いや、そんな単純なものではないだろう。
このとき、同じ敵性国でありながら、イタリア人とドイツ人は収容所送りにはならなかった。
これはパールハーバーを仕掛けたのが日本だからとも、民族的な排斥があったためともいわれている。


Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1555019.jpgHnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1561675.jpg
主にロサンゼルス周辺の日本人と日系人が収容されたのが、このマンザナーだった。
砂地にバラックが等間隔に建てられ、軍隊式のキャンプ地が敷設された。
一つの建物に数家族が住み、家族同士の仕切りはカーテン1枚。
シャワーも数人で使い、トイレにいたっては男女ともに仕切りがなく、完全にプライバシーのない生活だったという。
しかし、このキャンプ内では比較的自由に行動もできたといい、収容者がそれぞれの職や特技を生かして、次第にコミュニティが出来上がっていった。
キャンプ内には学校もあり、そこではアメリカ人の教師が教鞭を取った。
当時を振り返って収容者の一人が回想する。
「アメリカ人の先生から民主主義について教わるんですが、何とも言えませんでした」と…


Hnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1510343.jpgHnads-down...Manzanar War Relocation Center 2_c0062603_1564564.jpg
1945年11月21日、このマンザナー強制収容所が閉鎖になるまでの3年間、ここで暮らした人は、日本とアメリカの国家間の戦いとともに、自己の中での二つの祖国の戦いを強いられていた。
この収容所では、アメリカへの忠誠を誓うことを求めた質問が全員になされ、28の質問に対して86.5%の人がYES(忠誠を示す)と答えたという記録が残っている。
自ら志願して大戦に臨み、命を落とした人もいる。
どんな思いで参戦したのだろうかと思うと、胸が締め付けられる思いがする。
多くの収容者は、収容時に財産を没収され、帰る家もなかったため、閉所後もここで生活したという。
135名がここで終焉を迎え、15名がこの地に埋葬されている。

"I still think this is the best country in the world, hands-down...and it's just up to everybody to see that it stays that way."

"Imagine" John Lennon


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by lanova | 2007-01-18 23:48 | Trip